対話
仕事を進める上で、最近は電話をするより、
でやり取りする回数の方が多くなってきた。
は便利な伝達手段であり、確かな伝達手段でもある。
以前は、緊急の用事で電話
をしても相手が外出中だったり、折り返し電話
を貰った時は、こちらが外出中・・・といったりしたことがしばしばあった。
大事な用件もタイミングを逃がしてしまう事があり、このメールの普及には大いに助かるものがある。しかし、このメールによる伝達の弊害のようなものも時として感じることがある。
単なる情報伝達、データ添付送信ならいいのだが、自分の所感というか、方針というか、そんなものを織り交ぜて、メール上で議論をするのはどうかと思う。
ましてや、金銭に絡むことでの議論は尚更だ。![]()
最近、間接的に関係があるA氏とB氏のやり取りの
があった。
中間でしっかりと読ませてもらうが、段々険悪な雰囲気になってくるのが分かる。
「おい おい これじゃ喧嘩だよ
ビジネス上のやりとりじゃないよ」と思いながらも読む。挙句の果ては仲裁しなければならないところまで発展し、双方の間は修復不能となってしまった。
そんな例は一度や二度ではない。実は私も5年程前、メールのやりとりでお互いの溝が埋められなかった経験がある。双方の言い分はさておき、
では平行線を辿り、最悪の結果を招いたのである。。。が後日、某所で偶然出くわし、気まずく、照れくさい中、30分の立ち話で折り合い点を見出し、完全解決し、面と向かって話し合うということは、こんなにも違うものなのかと実感したものだ。
両氏には「話がもつれる前に、どうして会って話さなかったんだ?」と思う。会って話せば、すべてが一気に解決するのに・・・と私の経験から、間違いなく言える。![]()
便利な世の中になった分、対話をするということが少なくなったように思うし、わざわざ、その必要性も少なくなってきた。
しかし、語り、聞き・・・という
「耳は小宇宙から大宇宙に向かって開かれた『生命の窓』なのです。
また、そこから命の奥底にまっすぐに入っていける『魂への門』なのです。」
生命の窓といわれれば、そうかな?と思うし、魂への門といわれれば、それもそうかな?と、凡人の私にはレベルが高すぎる話だ。
その『耳』
について今から10年前、ちょっと不思議な認識を抱いたことがある。
父が亡くなった時のこと。。。
臨終間近の父は多くの家族に見守られ、まさに、その時を迎えようとしていた。血圧値は下方を示し、脈も弱くなり、心電図も今に一直線の線になるのではないかと思われていた。
その時、看護師の方がこう言った。「お父様はもう意識はありませんが、耳だけは聞こえてます。耳は最後まで働いているのです。だから、声をかけてあげてください。」そう言われて、皆がてんでのことを語りかけた。
誰かが「今、九州に仕事で行ってるM(私の長女・父の孫)が横浜
まで帰ってきてるよ。あと40分
で着くから・・・」と言った。
今でも不思議なのだが、父の血圧は上昇し
心電図のグラフが安定
した。
勿論、意識はない。
やがて娘が病院に駆けつけ、もう点滴という点滴の管だらけになってる父に
「
オジイチャン!帰ってきたよ~!」と語りかけた。
父の臨終はそれから2~3分後だった。![]()
以来、私は耳
というものは特別の存在だと思っている。
世の中が便利になる一方で対話不足による誤解が生じるのを見るにつけ
「折角、りっぱな耳と口(対話)を持ってるのに!」と考えてしまう。![]()
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