« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »

2008年6月

大変なとき

今、大変な思いをしている。新しい顧客の開拓が功を奏し、業務がスタートして半年ばかりが経つ。

従来、会社が対応してきたモードをかなりの勢いでギアチェンジしなければならないことから、毎日が緊張の連続といっても過言でないくらいのプレッシャーがある。又、当社のような小さな会社は元よりその仕事のボリュームに見合うだけの人材がいるわけでもない。

しかし、受けた仕事を誠実に対応できる人財を探し確保するのも重要な仕事となる。(人財とは材料ではなく財産)

まるで綱渡りではあるが、都度都度「断じて達成する」の覚悟にも似た決断をくだしながらの前進である。かなりの蛇行運行も余儀なくされるが、とにかく前進を続けてゆかねばならない。小さな会社、大きな会社の区別なく、企業というものは、その場を安住の場として留まっていれば、それは現状維持のように見えて、実は後退しているに他ならないと、私は考えているからだ。

或る人は「無茶だよ。マンパワーもないのに、そんな仕事にチャレンジするのは・・」と言うが、私に言わせれば人材を揃えてから仕事を開始していたのでは、開始した瞬間、人件費倒れする。「大変だ。大変だ。」と言いながらも、努力+創意工夫+少しの無理、のミックスブレンドで戦っていくしかない。「やめときゃ良かった」と、ふと後悔することもあるが、だから面白いと感じることもある。

以前、誰かが言った。「大変ということはきくわると書くんだ」・・・「なるほど」と感じ入ったことがある。幾つになっても案外、素直な私は、それを単純に人生の指針としている。

又、その誰かは、こうも言った。

Fune_2 船が港を出るとき、船体まわりに大きな波が立つ。Nami2_2

結構、この波が大変な抵抗として重いものだ。

しかし。。。

一歩前進するということは、常にそういうものなのだ。

その波が立たないようにする方法はただ一つ、船出しないことだと。。。。

大きく変わると書いて、大変と読む。

たとえ苦しくても、やはり日々進化はしたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ポカと手抜き

営業マンとして勤めていた若い頃、事が失敗に終わると、

時の上司に「それはポカだったのか?手抜きだったのか?」とよく尋ねられたものだ。

「ポカはいいが、手抜きは絶対いかん!」それが、その上司の口癖だった。pout

ポカによるミスというのは、経験不足の為、知らなかったり、気がつかなかったりして起こすミス、手抜きというのは、やらねばならないと分かっているのに、やらなかったことにより起こすミス・・・・その上司は、販売会議の時はいつも口を酸っぱくして、そう言っていた。

私も含め、周りを見るに、この手抜きによる失敗はあとを絶たない。

やっておくべきだ、やっておかねばならない、やっておいた方がよい・・・そのことを何故怠るのかということを考える時、案外、これが勇気のいる作業になることが多いのだ。(ここまで折衝した。あとは、しっかり念押しだ)という時に(待てよ!そこまで、しつこく言うこともないか)と手を緩めてしまう。それは横着というより、余計なことを考えてつい弱気になってるに他ならない。

私の場合の手抜きによる失敗は対社員に対して起こったことが多い。(これは絶対に叱るべきだ!そうでないと、会社の為にも、顧客の為にも、第一、本人の為にもよくない)という局面に立ったとき、何人かを呼びつけたことがあったが、結局、何も叱らず、本人の言い分を聞いただけに終わったことがある。結局、心の中で(叱るのは得策ではない)と勝手に思い込んだ、いわゆる(何も無理して嫌われることもない)という臆病な自分が現れただけのことだった、と今思う。

今の会社を興して15年。何人かの社員が会社を去っていった。あの時、本気になって叱っておけば、大問題に発展もせず、その彼も今頃はいっぱしの人材に育っていたのではなかっただろうか・・と後悔することもある。

社長が社員を叱らないこと、それは経営上の最大の手抜き・・・

親が子供を叱らないこと、それは教育上の最大の手抜きであるような気がする。 

699 698

| | コメント (0) | トラックバック (0)

割に合う仕事、合わない仕事

長いこと、仕事をしていると、俗に言うところの「割に合う仕事」と「合わない仕事」があることに出くわす。前者は、いわば効率よく儲かる仕事、後者は恰も、貧乏クジをひいたような労多くして、報われ方の少ない仕事である。

人を見ていても「何で、あいつはいつも、あんなに割りのいい仕事に恵まれるのだ?」という人もいれば、「何で、あいつはいつも、あんな風にカスをひくのか?」と思える人がいる。

しかし、経験から見て、「割りのいいこと」も「割りの合わないこと」も誰にも平等に与えられているような気がしてならない。人に与えられるチャンスとか、運は平等だとよく言う。

「運が悪い」とか「割りを食った」とよく言う人は、往々にして、そのことをよく口にする。そんな人は、たとえ、運に恵まれたり、割りのいいことに出くわした時でも、案外無頓着なもので、そのことについて「私は幸せ者だ」とか「守られた」という言動をとらない。それを言ってしまうと、沽券に関わると思うのか、運が逃げると思うのか、とにかく、割りに合わないことに出くわした時ばかりに敏感で、愚痴・嘆きとしての、言動が多い。

逆に常に「割りの合う」ことに恵まれていると見える人からは、いつも「ありがたいことだ」とか、「おかげさまで・・・」という言葉が、口をついて出る。そんな人は「割りに合わない」ことがついてきても、そのことにはこだわらず、何も言わず、涼しい顔をして、当たり前のように振舞っているものだから、つい(この人には不運などというものは無縁なんだろう)とすら思ってしまう。しかし、あとで聞いてみると、割りを食った回数も半端でなかったことを知る事が多い。

古い言葉で「良からんは不思議、悪からんは一定(いちじょう)なれと思へ」というのがある。良いことも、悪いことも人生の常。それならば、どうせ一度の人生、すべてのことが自分にとって意味ある事柄だと捉え、感謝しながら楽しい人生を送っていきたいものだ。そんな思いに運も向いてくるような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

憂鬱からの脱出

天候のせいもあるのだろうが、最近、自分は鬱病になったのか?という日々が何日か続いた。私の身の周りにも鬱病になった人が何人かいて、鬱病という病も他人事ではないと考え始めていた。

会社の業績は今後に向けて、そう悲観したものでもない。ありがたいことに、いろいろと忙しく働かせてもらっている。体調がすぐれないわけでもない。人と話す時も普通に話せるし、元気がないようだが・・・?と指摘されたこともない。

しかし、何か燃えてくるものがない。何かしっくり来ない。そんな思いに苛まれていた。鬱病は、真面目な性格の人が罹りやすい病だという。そんなに自分は真面目な人間だったのかと反省(?)したり、仕事を休んで、旅にでも出ようかなどと考えてもみたりした。さりとて、旅行する自分をイメージしても、何処に行って、何をするのかの案も出てこない。又、旅に出るほどの時間的余裕もない。

そんな自分が一気に憂鬱から脱却できることがあった。

何でもないことなのである。古いメモが何かの拍子で私の目にとまった。

そこに走り書きしたメモは「人と自分を比較するのは愚かなことである。比較するのは昨日の自分と今日の自分の比較~・・・・」とあった。我人生の師とも仰ぐ人の話を、随分昔だと思うが、何気なくメモしていたのだ。

会社の維持・存続、発展を考える上でも、最近の私はどうも他人、他社との比較、いわゆる周囲の環境を中心に自分の行動指針を決めていたように思う。そんな時は、自分というものが全くなく、ポリシーなどは縁のない、ぶれっ放しの自分があるような気がする。

周囲の環境、他人の状況、それらは重要な情報であるには違いないのだが、自分の本質を動かす羅針盤ではないと思う。そんな時は初心すら忘れているし、恨みつらみすら心の中に発生させている。

そんな年になって今更ながら、そんなことを言ってるの?と笑われそうだが、再度自分自身をしっかり見つめ、何処に向かっていこうとしているのかという認識を新たにし、誰に勝つでもない、昨日の自分に勝ってゆきたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年5月 | トップページ | 2008年7月 »